あんのよしなしごと

三谷幸喜さんの作品の感想、本の感想、映像作品や音楽の感想などをつづったブログです。

舞台 「チャイメリカ」 感想

【作】ルーシー・カークウッド Chimerica by Lucy Kirkwood
【演出】栗山民也
【翻訳】小田島則子

【出演】田中 圭 満島真之介 倉科カナ 眞島秀和
    瀬戸さおり 池岡亮介 石橋徹郎 占部房子
    八十川真由野 富山えり子 安藤 瞳 阿岐之将一 田邉和歌子
    金子由之 増子倭文江 大鷹明良

世田谷パブリックシアターにて観劇。

【あらすじ】
1989年、天安門事件。
天安門広場に現れた戦車の前に買い物袋を両手に下げた一人の青年が立ちはだかった。
現場近くに偶然居合わせた19歳のアメリカ人ジョー・スコフィールド(田中圭さん)がその様子を撮影した写真は「戦車男」として世界に衝撃を与えた。

時は流れ、2012年。
ジョーは同い年の中国の友人ヂァン・リン(満島真之介さん)から聞いた手がかりを元に、「戦車男」の消息を探し始める。

「事実」は何か?「ヒーロー」は誰か?

小さな手掛かりから謎に迫るミステリー風の進行を取りながら、天安門事件を軸に現代社会の問題がアメリカ人ジョーの視点、中国人ヂァンの視点それぞれから多層的に描かれる。

戦車の前に立ちはだかった青年と、戦車上の兵士。
その光景を撮影した人間と、撮影された人間。
当事者と、傍観者。
アメリカの論理、中国の論理。

物語が進むほどに、ジョーの視点とは別の視点からみた「事実」が明らかになり、事実そのものが立体的になっていく。
それは、写真に写る「その瞬間」の背景にある事実は無数にあるということも意味しているのだろうと思います。

1989年当時と2012年現在のシーンが交錯しながら「戦車男」の謎の核心へ向かう物語の運びがとても巧みで、あたかもビリヤードの球が思わぬ方向に転がっていったと思いきや、壁に当たったり他の球に当たりながら最終的にはすべての球がポケットにスポっとはまるように収束するカタルシスもありました。

観終わった後は、一つの出来事を一面的に見てわかった気になることの危険性と、「視点が違えば、同じ事象の捉え方も変わる」ということを痛感。

どれだけ物事を俯瞰で見れるか。

置かれている状況や立場の違う人たちのことを理解しようという姿勢を持てるか。想像することができるか。外の世界の話を色眼鏡なく素直に聞けるか。思い込みなく他人を見ることができるか。

自分が目にしている情報は真実なのか。フェイクニュースではないとなぜ言えるのか。

ジョーはカメラマンあるいはジャーナリストとして、その点もう一歩も二歩も足りない底の浅いところがあるのですが、そんなジョーを嫌な奴に思えないのは田中圭さんだからこそ。もう何やってるの、今それはないでしょ、という残念なところも魅力に転換していました。

そしてそういう田中圭さんのジョーがいることでより際立つ満島真之介さんのヂァン。
身体の動きもあまりなく、座っていたり部屋の中をウロウロするばかりなのに、ヂァンの無念さ、やるせなさや焦り、なんとかしたいという微かな希望が伝わってきて、この舞台の空気は満島真之介さんが支配していたように思います。

 

世界中で起きている惨劇のニュースに我々は慣れてしまっている、そういう今、必要なものは何なのか?というジョーの問いかけは、惨劇のニュースを日々目にする「大多数の傍観者」な人々はそういうニュースをどう受け止めるべきなのか?を問うているようにも思いました。

演劇のメディアとしての役割

普段私は三谷幸喜さんの舞台をよく観ていますが、三谷さんのコメディは「観終わったら後に何も残らない」ことが謳われているように、何かメッセージを伝えたり、問題提起をするような作品はあまりありません。
観る側は舞台を見ている間は現実を忘れてひと時の幸せを感じ、ストレス発散することができます。

そういう舞台を多く観ていることもあり、今回は演劇らしい演劇を観たという気持ちになりました。

そして同時に思ったことは、これが小説だったなら、私は読んだだろうか?(おそらく読まないだろう)ということ。

正直なところ、私は出演者の俳優さんの方々に興味がありこの舞台を観ました。その結果、俳優さんよりも描かれた内容に様々なことを考えさせられました。

俳優さん目当てで見た人が、思いがけずこの問題提起を受け取る。
俳優、脚本家、演出家などをある意味「きっかけ」にすることで、より多くの人に興味を持ってもらえる。

演劇をメディアとして位置づけて、こういう「何かを伝える」やり方もあるのだなと思いました。

 

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