あんのよしなしごと

三谷幸喜さんの作品の感想、本の感想、映像作品や音楽の感想などをつづったブログです。

吉田 修一『東京湾景』

 

東京湾景 (新潮文庫)

東京湾景 (新潮文庫)

 

 

芥川賞受賞作品『パーク・ライフ』を読んで、吉田修一作品はこういうものか、とわかった気になってしまっていたことを大いに反省。

『パーク・ライフ』も本作も、何か大きな出来事が起こるわけじゃなく、淡々として感情描写も冷静という共通点はあるが、『パーク・ライフ』とは違い、人の心を描写することに踏み込まれていると感じた。

人を愛するってどういうことなんだろう、と考えさせられた。
まとまった文章として書こうとすると、手が止まってしまうので、気になった箇所を引用しながら感想を。

"亮介のことをそれほど愛していないからこそ、彼の腕の中でこんなにも自由にからだを解放できるのだ。"

私が本作の登場人物の中で一番共感したのが美緒。この感覚は何となくわかる。
自分を解放するのは自分本位な気がしていて、相手を想うほど、相手本位で行動したくなるから。
(でもそれって違うのかもしれない・・・と最近思ったりもしますが)

"「なるほど。消去法でただ一つ消えないのが、ゆうこちゃんなんだ」"

見飽きたなんて言っていても、消去法でただ一つ消えないなんて、ものすごいことだと思う。
(たぶん誰でも、誰かの、消去法でただ一つ消えない存在、になりたがっているのだと思う。もちろん、私も。)

"あんなに愛してたのに、それでも終わったんだよ。人って何にでも飽きるんだよ。自分じゃどうしようもないんだよ。好きでいたいって思ってるのに、心が勝手に、もう飽きたって言うんだよ。"

最初この部分を読んだ時は、すごく理解できた。そうだよね、と思った。
でもこの部分と「消去法でただ一つ消えない存在」に自分の中で矛盾を感じたので、考えた。

終わるときはただ単に「飽きた」のではない気がする。そうではなくて、相手と向き合うことを「諦めた」のではないか。しかも「心が勝手に」ではなく、自分の意思で。
好きとか好きじゃないとかいう感情の問題ではなく、それとは無関係の「続けられない要因」のほうが気になってしまって、終わりを決めるのかもしれない。そしてその要因はおそらく、言葉にして正確に表現するのはとても難しいものである気がする。少なくとも、相手に正確に伝えるのは。
そして感情の問題ではなかったがゆえに、「飽きた」と思うしかない、と。

(ただこれはあくまでも「飽きて終わる」ことについてであって、何らかの要因で「嫌い」になって終わるのもあるのでしょうし、それは向き合うことを諦めた云々ではないでしょう。)

「美緒も亮介くんも何も始めてないじゃない。始めるのが怖くて、お互いに目をつぶったまま抱き合ってただけじゃない!」

思わずハッとしてしまった。ずっと一緒にいても「何も始めていない」。
これまで私も「何も始め」ずに終わらせてしまっていたのかもしれないと思い知った。
それこそ、「飽きた」「飽きられた」で済ませてしまって。

1つ前に読んだ「ひとり日和」と合わせて、この2冊は大きな収穫だったと思う。