家電が文学の中でどう使われているかを熱く語る!
長嶋さんは「芥川賞作家」という文豪めいた印象からは想像できない、マニアックな面をお持ちのようなのは、エッセイや「ブルボン小林」名義での著作でもわかります。
そんな長嶋さんの、「さまざまな文学作品の、その中の電化製品について描かれている場面だけを抜き出して熱く語った(「はじめに」より)」書評集。
さまざまな文学作品からそれぞれ取り上げられている場面は数行。
これに対し、長嶋さんが電化製品の描写がその場面にどういう効果をもたらしているかを分析。
すると、その数行の場面が、生き生きと動き出す。
電化製品はこんなにも小説世界の中で意味を持ってたたずむことができるのか!
同時に、名詞を扱うことの難しさの話など、小説家は表現することにどう向き合っているのかといった内容もあり、何気ないように見える描写であっても、小説家はここまでの意図をもって綿密に言葉を選び、物事を描きこむのかと大変興味深かった。
そして電化製品という「モノ」にフォーカスする切り口は、長嶋さんならではなようにも思う。
多くの小説では、川のせせらぎを描写することで、例えば静寂の中に息づく希望のようなものを描くように、景色の描写によってその場の「空気」や人物の感情を表現している小説はよくみるような気がするけれど長嶋さんは「モノ」の描写でそれをやってしまうことに特徴があると思う。
以前、『ジャージの二人』の感想でこんなことを書いたのを思い出した。
小説の中の世界の描かれ方が、作者中心でも、主人公中心でも、あるいはどの人物やモノ中心でもない。例えばたまたま主人公が魚肉ソーセージを見つけたから、主人公は魚肉ソーセージについて考える。決してそこに魚肉ソーセージがあることが必然で、魚肉ソーセージが物語上重要な役割があるわけではない。でも、主人公が魚肉ソーセージに対して考えることが描写されることで、主人公の人となりや、世界観が浮き彫りになっていく。
魚肉ソーセージは、まだそれだけで何か情緒的なものを感じる分、川のせせらぎに近いものがあるが、電化製品はそういう情緒的なものがない。
だからこそ、その情緒のなさを活用した表現があることを気づかせてくれた。
電化製品という切り口で書評してみようという着眼の面白さ、
取り上げられた作品を読んでみたいと思わせる書評としての価値、
長嶋さんの小説家としての表現技術の一端を知ることができるお得感に感嘆。
長島有さんは、芥川賞作家の中であまり技巧派という印象はなかったのですが、いやぁ、実はすごくしなやかに緻密な人なんじゃないかと、脱帽いたしました。