作•演出: 三谷幸喜
出演: 大泉洋 山本耕史 竜星涼 栗原英雄 藤井隆
濱田龍臣 小澤雄太 まりゑ 相島一之 浅野和之 辻萬長
PARCO劇場オープニングシリーズ。
コロナ禍のため公演スケジュールが変更、感染防止のため俳優同士も舞台上でソーシャルディスタンスを守れるSocial Distancing Version。
【あらすじ】
とある共産主義国家。独裁政権が遂行した文化改革の中、反政府主義のレッテルを貼られた俳優たちが収容された施設があった。
強制的に集められた彼らは、政府の監視下の下、広大な荒野を耕し、農場を作り、家畜の世話をした。
過酷な生活の中で、なにより彼らを苦しめたのは、「演じる」行為を禁じられたことだった。
役者としてしか生きる術を知らない俳優たちが極限状態の中で織りなす、歴史と芸術を巡る群像劇の幕が上がる!
当初公演のチケット争奪戦は全敗していたため、観ることができないと思っていましたが、今回イープラスの有料配信で観劇することができました。
観ている側の立場や状況、誰に感情移入するかで受ける印象がだいぶ変わる内容だったのではないかと思いました。
以下ネタバレ満載の感想ですのでご注意を。
前半: 生きるために、演技が上手いことは価値がないのか
演劇に関係すると捕まって収容所に送られ、厳しい監視下で家畜の世話をしたり畑を耕さないといけない。
収容所のある一室で生活をともにするのは大御所俳優バチェク(辻萬長さん)、映画スターブロツキー(山本耕史さん)、俳優兼演出家ツルハ(相島一之さん)、女形俳優ツベルチェク(竜星涼さん)、パントマイム役者プルーハ(浅野和之さん)、大道芸人のピンカス(藤井隆さん)、演劇を志す学生ミミンコ(濱田龍臣さん)、そして、ぱっとしない役者チャペック(大泉洋さん)。
彼らの多くは演じること、芸をすることにしか能がない。
しかしこの場所では演技が上手いことに何の価値もない。彼らを監視する指導員(栗原英雄さん)といい関係を築いて嗜好品を手に入れるスキルの方が役に立つ。
チャペックは演劇人としては才能がなかったが、この場所でうまく立ち回るスキルには長けていた。
つまり収容所では、チャペックの方が他の俳優、芸人たちよりも価値が高い。
前半ではこのことが繰り返し描かれていました。
そんな状況が、どこかコロナ禍における演劇などのエンターテインメントが置かれる状況と重なるようでやりきれず。
それでも演劇人は強かった。
罰として全員夕飯抜きにされても「夕食を奪われたとしても想像力は奪えない、演技で晩餐を楽しむことができる」と皆がパントマイムで楽しそうに乾杯をし、食事をするシーンでは「演劇は心を豊かにする、生活になくてはならないものだ」というメッセージを感じ、思わず涙しました。
ただチャペックがその輪に入れずに後ろで一人、乾杯の仕草をしていたことに引っかかりながら。。。
後半:凡人へ突きつけられる現実の容赦のなさ
若者ミミンコを恋人に会わせてあげるためにみんなで収容所の管理官を騙し、規則を破った。
そのことで誰か一人、おそらく生きては帰れないと思われる「谷の向こう」に行かねばならなくなった。
その時、唯一無二の才能を持った俳優、芸人たちはその才能でもって引き留められた。
若者は、若い、ということで引き留められた。
そして代わりがきくという理由でチャペックが指名された時、誰も引き留める人はいなかった。
唯一無二の才能のない人間には価値がない。
凡人に突きつけられたこの容赦のなさに震え上がりました。
演技が上手いことには価値がない、という前半の裏返し構造というわけでもなさそうで、際立った才能がなくても自分の居場所を見つけて少しで誰かの役に立ちたいと必死に生きている「凡人」にとってはキツい。
チャペックが「谷の向こう」に去った後、他の面々が芝居の練習をしようとして勝手が違い、続けられなくなって発せられたメッセージは「観客がいなければ芝居は成立しない」。
それは確かにそうでしょう。
でもチャペックは観客ではなかったと思うのです。そして彼の存在価値は観客であることではなくて。
どこまでもチャペックを自分たちの側に置かない他の面々に残酷さを感じました。
そして凡人である私は最後はチャペックに感情移入していました。
唯一の救いは、後日談でチャペック以外が収容所から解放されたあと、多くが二度と舞台に立たなかったのに対しブロツキーは演じ続けたこと。でもヒーロー役は演らなかったこと。
自分が「谷の向こう」に行く、本物のヒーローになりたいと言ったブロツキーに、最終的に「谷の向こう」に行くことになったチャペックが「悪いね、ヒーロー役奪っちゃって(うろ覚え)」と言っていたことを、ブロツキーはずっと覚えていたのではないでしょうか。
ブロツキーだけがちゃんとチャペックの絶望に向きあってくれた気がしました。